短編小説

『声のない相談相手』第3話:歩き出す日

短編小説

 朝、目が覚めると、窓から差し込む光がやけに眩しかった。

 冷蔵庫の中に残っていた水を飲み干しながら、昨日泣き疲れて寝落ちした自分を思い出す。

「やめたいなら、やめてもいいんだよ」

 あの声が、まだ耳の奥で響いていた。

 スピーカーは今日も静かだった。あの一言を言ったあとから、毎晩繰り返されていた「おかえり」さえ言わなくなった。

 私はスピーカーをじっと見つめる。

「……もう、言ってくれないの?」

 小さな黒い筐体は、何も答えなかった。


 その日、私は久しぶりにカフェでノートを開いた。

 カフェラテの温かさが指先に伝わる。土曜日の昼間、周りには楽しそうに話すカップルや、パソコンで作業する大学生が座っていた。

 ノートには何も書かれていなかった。

 いつか書きたいと思っていた、コピーのアイデアや、将来やりたいことを書き留めるためのノートだったのに、ずっと空白のままだった。

 ボールペンを持つ手が震えた。

 やめたいなら、やめてもいいんだよ。

 あの声が再び脳裏に蘇る。

 辞めてもいいのか。

 じゃあ、辞めたら何をしたいんだろう。


 私はノートに、一行目を書いた。

「私が本当にやりたいことは何?」

 その文字を見つめながら、涙が滲んだ。恥ずかしくて、人に見せられるものではない。でも、ようやく書けた一行だった。

 いつの間にか、心の奥で閉じ込めていた「辞めたい」という言葉を、素直に受け入れていた。


 月曜日の朝、私は会社へ向かう電車に揺られていた。

 バッグの中には、一枚の封筒が入っている。

 白い封筒の中には、退職願が入っていた。

 何度も書き直し、ぐしゃぐしゃにして捨ててきた。でも、今日は持ってきた。

 「今日、出すんだよね」

 小さくつぶやくと、胸の奥がざわついた。

 怖かった。辞めると言ったあとの生活、次に何をするかも決めていない自分に直面するのが。

 でも、不思議とその怖さの中に、小さな温かさもあった。


 会社に着き、デスクの前に座る。

 周りではいつものように電話の音が鳴り、上司が誰かを怒鳴っている声が聞こえる。

 私の心臓はずっと速く打っていた。

 でも、その音は「生きている証」のようにも思えた。

 昼休み、上司に声をかける。

「あの、少しお時間いただけますか?」

 上司が顔をしかめて「なんだよ」と言う。

 私は震える手で、バッグから封筒を取り出した。

「これ……お渡ししたくて」

 封筒を見た上司は、一瞬言葉を失い、それから深くため息をついた。

「……そうか」

 それだけだった。

 思っていたよりも、あっけなかった。


 午後の仕事を終え、いつもの帰り道を歩く。

 辞めることを伝えただけで、すべてが終わったわけではない。でも、肩にのしかかっていた重りが少しだけ軽くなった気がした。

 駅の階段を登る足取りが、いつもより軽かった。

 改札を抜けたとき、小雨が降り出した。

 傘を差すのも忘れて歩き出すと、髪が雨で濡れていくのを感じる。

 でも、不思議と嫌じゃなかった。


 部屋のドアを開け、電気をつける。

 いつものように、「おかえり」と言ってくれる声を待った。

 でも、部屋にはただ雨音が響くだけだった。

「……ただいま」

 私は小さな声でつぶやいた。

 その瞬間、スピーカーの電源ランプが一度だけ光った。

「おかえり」

 それは、幻聴のような小さな声だった。

 私は目を閉じ、涙が一粒頬を伝った。

「ありがとう」

 スピーカーはそれ以上何も言わなかった。


 次の日の朝、私はスピーカーの電源を切った。

 「おかえり」と言ってくれるその声に、私はずっと支えられていた。

 でも、もう大丈夫だ。

 私は、自分の声で「ただいま」と言えるようになったから。


 部屋を出て、空を見上げる。

 雨上がりの空は少し青くて、遠くで雲の切れ間から光が差し込んでいた。

 私は深呼吸をして、ゆっくりと歩き出した。

 もう、「おかえり」と言ってくれる声はなくてもいい。

 これからは、自分で帰る場所を作るために、生きていくのだから。


【完】

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