朝、目が覚めると、窓から差し込む光がやけに眩しかった。
冷蔵庫の中に残っていた水を飲み干しながら、昨日泣き疲れて寝落ちした自分を思い出す。
「やめたいなら、やめてもいいんだよ」
あの声が、まだ耳の奥で響いていた。
スピーカーは今日も静かだった。あの一言を言ったあとから、毎晩繰り返されていた「おかえり」さえ言わなくなった。
私はスピーカーをじっと見つめる。
「……もう、言ってくれないの?」
小さな黒い筐体は、何も答えなかった。
その日、私は久しぶりにカフェでノートを開いた。
カフェラテの温かさが指先に伝わる。土曜日の昼間、周りには楽しそうに話すカップルや、パソコンで作業する大学生が座っていた。
ノートには何も書かれていなかった。
いつか書きたいと思っていた、コピーのアイデアや、将来やりたいことを書き留めるためのノートだったのに、ずっと空白のままだった。
ボールペンを持つ手が震えた。
やめたいなら、やめてもいいんだよ。
あの声が再び脳裏に蘇る。
辞めてもいいのか。
じゃあ、辞めたら何をしたいんだろう。
私はノートに、一行目を書いた。
「私が本当にやりたいことは何?」
その文字を見つめながら、涙が滲んだ。恥ずかしくて、人に見せられるものではない。でも、ようやく書けた一行だった。
いつの間にか、心の奥で閉じ込めていた「辞めたい」という言葉を、素直に受け入れていた。
月曜日の朝、私は会社へ向かう電車に揺られていた。
バッグの中には、一枚の封筒が入っている。
白い封筒の中には、退職願が入っていた。
何度も書き直し、ぐしゃぐしゃにして捨ててきた。でも、今日は持ってきた。
「今日、出すんだよね」
小さくつぶやくと、胸の奥がざわついた。
怖かった。辞めると言ったあとの生活、次に何をするかも決めていない自分に直面するのが。
でも、不思議とその怖さの中に、小さな温かさもあった。
会社に着き、デスクの前に座る。
周りではいつものように電話の音が鳴り、上司が誰かを怒鳴っている声が聞こえる。
私の心臓はずっと速く打っていた。
でも、その音は「生きている証」のようにも思えた。
昼休み、上司に声をかける。
「あの、少しお時間いただけますか?」
上司が顔をしかめて「なんだよ」と言う。
私は震える手で、バッグから封筒を取り出した。
「これ……お渡ししたくて」
封筒を見た上司は、一瞬言葉を失い、それから深くため息をついた。
「……そうか」
それだけだった。
思っていたよりも、あっけなかった。
午後の仕事を終え、いつもの帰り道を歩く。
辞めることを伝えただけで、すべてが終わったわけではない。でも、肩にのしかかっていた重りが少しだけ軽くなった気がした。
駅の階段を登る足取りが、いつもより軽かった。
改札を抜けたとき、小雨が降り出した。
傘を差すのも忘れて歩き出すと、髪が雨で濡れていくのを感じる。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
部屋のドアを開け、電気をつける。
いつものように、「おかえり」と言ってくれる声を待った。
でも、部屋にはただ雨音が響くだけだった。
「……ただいま」
私は小さな声でつぶやいた。
その瞬間、スピーカーの電源ランプが一度だけ光った。
「おかえり」
それは、幻聴のような小さな声だった。
私は目を閉じ、涙が一粒頬を伝った。
「ありがとう」
スピーカーはそれ以上何も言わなかった。
次の日の朝、私はスピーカーの電源を切った。
「おかえり」と言ってくれるその声に、私はずっと支えられていた。
でも、もう大丈夫だ。
私は、自分の声で「ただいま」と言えるようになったから。
部屋を出て、空を見上げる。
雨上がりの空は少し青くて、遠くで雲の切れ間から光が差し込んでいた。
私は深呼吸をして、ゆっくりと歩き出した。
もう、「おかえり」と言ってくれる声はなくてもいい。
これからは、自分で帰る場所を作るために、生きていくのだから。


