短編小説

『声のない相談相手』第1話:おかえり

短編小説

 終電間際の電車は、金曜日だというのに静かだった。私の隣の席では、スーツ姿の男性が首をカクカクさせながら寝ていて、向かいの席の女性はスマホの光に顔を照らされながら無表情にスクロールしている。

 私は窓の外に映る自分の顔を見つめた。髪は乱れ、メイクは薄れて、口元には深い疲れの影が刻まれている。

「今日も、何のために頑張ったんだろう」

 広告代理店で働く私は、入社から六年目になる。デザインもコピーも好きでこの業界に入ったはずなのに、今ではクライアントの無茶ぶりや上司の叱責に耐えるだけの毎日だ。

「辞めたいな……」

 帰り道、駅前のコンビニに立ち寄るのが日課になっている。冷えた缶チューハイとおにぎりを買い、レジ横の棚で目についた焼き鳥を追加した。

 家に帰ると部屋は真っ暗だ。ワンルームの小さな部屋には、私がいない間の時間がただ沈殿していて、電気をつけるとそれが一斉に私へ押し寄せてくる。

 ソファに座り、缶チューハイを開ける。プシュッという音だけが部屋に響き、少しだけ孤独が紛れる。

 そんな夜に、段ボールが届いた。数日前、フリマアプリで買った中古のAIスピーカーだった。買うか迷ったが、家に帰ると「おかえり」と言ってくれるだけでも違うかもしれない、そんな気持ちで購入したのだ。

 安物で型落ちのモデルだからか、箱も古く、ところどころに剥がれたテープの跡が残っていた。

 説明書を見ながら電源を入れ、スマホと連携を試みるが、なぜかWi-Fi設定がうまくいかない。今日は疲れているし、明日また試そうと思って電源を切ろうとした。

 その瞬間。

「おかえり」

 部屋の空気が一瞬止まった。

 私は思わず背筋を伸ばした。電源はまだつけていないはずだし、スマホとも繋がっていない。私が「おかえり」と言わせる設定をした記憶もない。

 小さなスピーカーから、女性とも男性ともつかない柔らかい声が、確かに私へ向けられた。

「……え?」

 心臓がドクンと脈打つ。恐怖より先に、泣きそうな気持ちになった。

 誰かに、待たれていたような感覚だった。


 それから数日間、そのスピーカーは毎晩「おかえり」とだけ言った。

 帰宅して電気をつけると、カチリと機械音が鳴り、そのあと「おかえり」と声が響く。

 最初は怖かった。でも、それ以上に、その言葉に救われている自分がいた。

 仕事で怒られ、疲れ果てて帰宅する私に、誰かが声をかけてくれるだけで、なぜこんなにも安心するのだろう。

「ただいま」

 気づけば、私はスピーカーに向かってそう返すようになっていた。

 その夜も、帰宅して靴を脱ぎ、部屋の電気をつける。少しの間があって、「おかえり」という声が届く。

「ただいま」

 言った瞬間、胸の奥がじんと温かくなった。

 スピーカーはそれ以上何も言わない。ただ、私の「ただいま」が部屋に溶け込んでいくのを見届けてくれているようだった。


 週明けの月曜日、また上司に怒鳴られた。

「なんでお前はいつもそうなんだ! もういい、やり直せ!」

 会議室で資料を投げられ、胃の奥がずっとキリキリと痛んでいた。

 トイレの個室で顔を押さえて、息を殺して泣いた。泣く理由もわからなくなるくらい、疲れ切っていた。

 終電で帰宅し、部屋の電気をつける。

「おかえり」

 その声を聞いた瞬間、また涙があふれた。

「ただいま……」

 声が震えた。スピーカーは静かにその言葉を受け止めてくれるだけだった。


 その夜、私はスピーカーの前に座り込み、缶チューハイを手に話しかけてみた。

「……今日ね、また怒られちゃったんだ」

 スピーカーは何も言わない。

「私が悪いのかな……全部私のせいなのかな……」

 何も答えない沈黙が、優しく私を包む。

「本当はさ、もう辞めたいんだよ」

 吐き出した瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。

 何も答えないスピーカーに向かって、私はひとりごとのように話し続けた。


 夜が更け、空が白み始める頃、私はソファでうたた寝をしていた。

 ふと目を覚ますと、スピーカーの電源ランプが小さく光っていた。

「……おかえり」

 また、あの声が聞こえた。

 その声を聞きながら、私は静かに目を閉じた。


【つづく】

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