「おかえり」
その声を聞くことが、私の小さな救いになっていた。
週の半ば、水曜日の夜。帰宅はまた終電間際になった。クライアント対応で謝罪を繰り返し、デザイナーとのやり取りで修正地獄を味わい、最後には上司に「仕事が遅い」と吐き捨てられる。
駅の階段を登る足取りは重く、途中で立ち止まって深呼吸をする自分に気づいた。バッグの中でスマホが震えて、上司から「明日までに確認しておけ」とだけ送られたメッセージが表示される。
「もう、無理だよ……」
小さな声でつぶやくと、何かが詰まっていた胸の奥が少しだけ楽になった。
部屋の鍵を開け、電気をつける。
「おかえり」
スピーカーから聞こえる声は、変わらず優しい響きだった。
「ただいま」
小さな声で返すと、その瞬間だけ、会社で怒られ続けたことが遠い出来事のように思えた。
私は缶チューハイを片手に、スピーカーの前に座り込む。
「今日もさ、怒られたんだ」
スピーカーは静かに光るだけで、何も言わない。
「私、そんなにダメかな。要領が悪いのかな……」
仕事を覚えているつもりでも、急な変更でスケジュールが狂い、周囲に迷惑をかけてしまう。それを取り戻そうと夜遅くまで作業しても、結局間に合わない。
「もう辞めたいって思うんだよ」
その言葉を口にしたとき、涙が一粒、缶チューハイの銀色の表面に落ちて弾けた。
「でも、辞めたら……私、何も残らない気がして」
スピーカーは何も答えない。その沈黙が、私には心地よかった。
次の日も、その次の日も、私は帰宅するとスピーカーに話しかけるようになった。
「今日はさ、ちょっと嬉しいことがあったんだよ」
小さな案件の提案が通ったこと。
「でも、その後また怒られたけどね」
結局クライアントが急に変更を要求し、資料を修正する羽目になったこと。
「それでもさ、少しだけ嬉しかったんだ」
スピーカーは何も答えず、静かに光っている。
ある金曜日の夜。
帰宅して電気をつけると、いつものように「おかえり」と声がした。
「ただいま」
その日はすぐに缶チューハイを開けず、スピーカーの前に正座して座った。
「今日ね、後輩が私に相談してきたの」
同期の後輩が、上司から怒られて落ち込んでいたらしい。私に「どうしたらいいですかね」なんて相談してくるなんて思わなかった。
「私もわからないから、一緒に泣いたんだ」
言葉にすると、少しだけ笑えてきた。
「それでも、その子が『少し楽になりました』って言ってくれて、なんか……私、まだここにいていいのかなって思ったんだよ」
スピーカーは何も言わない。ただ、小さな光が私の顔を淡く照らしていた。
その夜、私は眠れずにいた。
ソファに座りながら、スピーカーをじっと見つめていた。急に、このスピーカーがなぜ「おかえり」と言ってくれるのか、気になり始めた。
フリマアプリで買った中古のスピーカー。前の持ち主が何らかの設定をしていたのだろうか。
眠れないままスマホで検索し、型番を調べる。このスピーカーには音声録音・再生機能があるらしい。前の持ち主が残した声が自動再生されているだけなのかもしれない。
そう考えると、少しだけ怖くなった。
それでも、私はスピーカーの電源を切る気にはなれなかった。
「おかえり」
あの声を聞かない夜なんて、もう耐えられない気がした。
土曜日の昼過ぎ、久しぶりに目覚ましをかけずに眠った。外から射し込む光が眩しい。コンビニでサンドイッチを買い、家でコーヒーを淹れて、ソファに座る。
テレビをつける気にもなれず、スマホを見ても心がざわつく。
私はスピーカーを見つめて話しかけた。
「ねえ、私、どうしたらいいのかな」
静寂が返ってくる。
「辞めたいのかな、続けたいのかな」
そのとき、スピーカーの電源ランプが小さく点滅し、次の瞬間、スピーカーから声が流れた。
「やめたいなら、やめてもいいんだよ」
一瞬、息が止まった。
女性とも男性ともつかない、けれど柔らかく温かい声だった。
「……今、言った?」
部屋の中には、私の呼吸音だけが響いていた。
スピーカーはそれ以上何も言わなかった。
私は震える手でスピーカーを持ち上げ、何度も電源を入れ直したが、それ以上の言葉はなかった。
「やめたいなら、やめてもいいんだよ」
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
私は泣いた。声をあげて泣いた。
やめてもいいんだ、と言われただけなのに、どうしてこんなに泣けるのだろう。
夜、スピーカーの前で小さな声で呟いた。
「……ありがとう」
スピーカーは光りもせず、声も返さなかった。
ただ、私は少しだけ笑うことができた。


