第1章 25年目の春
1985年5月。地方都市の住宅街で、若い女性が帰宅途中に何者かに襲われ、命を落とした。
現場近くの路地には争った跡、落とされたバッグ、そして血のついたハンカチ。
警察は延べ3000人を動員して捜査を行ったが、犯人の足取りは途絶えた。
時代はバブル期を目前にしており、街はにぎやかさを取り戻していたが、被害者の家だけは時間が止まったままだった。
母親は、娘の遺影の前で線香をあげる日々を25年間続けた。
「どんな形でもいい、あの子がなぜあんな目に遭ったのか知りたい。」
だが年月は、残酷なほど静かに積み重なっていった。
第2章 時効まであと少し
2009年。事件から24年が経過し、捜査は終盤を迎えていた。
刑事訴訟法第250条によれば、殺人など「死刑に当たる罪」の公訴時効は25年。
つまり2010年5月——あと1年で「法律上の終わり」が来ることを意味していた。
遺族は署名活動を始め、法務省に嘆願書を提出した。
「犯人が見つからないまま時効を迎えるなんて、あまりに理不尽です。」
この声は全国の未解決事件の遺族たちにも広がり、社会問題として報道された。
やがて、政治の世界も動き出す。
第3章 法改正、4月27日
2010年4月27日。
ついに刑事訴訟法が改正され、殺人などの重大犯罪に対する公訴時効は廃止された。
「命を奪う罪に、時効はない」——法務大臣のその一言は、全国の遺族に希望を与えた。
しかし、改正法は“過去”には遡らなかった。
つまり、「2010年4月27日の時点で、まだ時効が成立していない事件のみ」が廃止対象。
すでに時効が過ぎていた事件は、いくら重大でも、法的に“終わったもの”とされた。
第4章 25年と1週間
そして迎えた2010年5月。
1985年5月に起きたこの事件は、改正からわずか数日後に25年を迎えた。
遺族のもとに届いた一通の通知には、無機質な文面が並んでいた。
「本事件は刑事訴訟法第250条の規定により、公訴時効が成立しました。」
母親は、涙をこらえながら記者に語った。
「あと1週間早く法改正が施行されていたら……。
娘の事件も、まだ捜査が続けられたんです。」
法の壁は冷たく、1日でも過ぎればすべてが無効になる。
“25年と1週間”というわずかな差が、永遠の断絶を生んだ。
第5章 廃止が生んだ新たな不公平
法改正の目的は、「被害者の尊厳を守り、加害者を逃さない」ことだった。
だが結果的に、**わずか数日の違いで「救われた遺族」と「救われなかった遺族」**が生まれた。
法律家の間では、今もその線引きの是非が議論されている。
ある警察OBはこう語る。
「あの時期は、全国の捜査本部がカレンダーとにらめっこしていた。
4月27日を迎える前に時効が切れる事件は、どうしようもなかった。」
一方、改正後の事件——たとえば1995年の八王子スーパー強盗殺人事件や1985年8月の名古屋女子大生殺人事件は、
時効が成立する前だったため、現在も捜査が継続されている。
たった数か月、数週間の差で運命が分かれたのだ。
第6章 残された人たち
時効が成立しても、遺族の心に「終わり」はなかった。
事件現場には今も花が供えられ、命日には近所の人が黙祷を捧げる。
一方、警察は法的には動けないが、地域の情報提供窓口を細々と続けている。
母親はインタビューでこう語った。
「時効があっても、あの人(犯人)は逃げ切れたとは思わない。
罪は心の中で一生消えないから。」
第7章 法の線の向こう側
なぜ改正法は過去に遡らなかったのか。
それは、日本の憲法が保障する「法の不遡及(ふそきゅう)」の原則にある。
後からできた法律を、過去の行為に適用してはならない——
それは、独裁的な恣意的処罰を防ぐための、民主主義の根幹でもある。
法務省関係者はこう語る。
「悔しいが、原則を曲げることはできなかった。
もし遡及適用を認めたら、刑法そのものの信頼が揺らぐ。」
正義のために原則を曲げるか、原則のために涙を飲むか。
日本の司法が選んだのは、後者だった。
第8章 終わらない記憶
25年と1週間。
法律の上では“時効”が成立しても、人の記憶は止まらない。
被害者の母親は、いまも毎年5月に墓前へ花を供える。
「もう法律では終わったと言われても、私の中ではまだ終わっていません。」
法改正から15年。
未解決事件のDNA再分析や、AIを用いた犯人像の再構築が進む。
しかし1985年以前の事件は、いまも「線の向こう側」にある。
時効がなくなっても、時の流れが遺族の傷を癒やすわけではない。
そして、時効があっても、記憶は決して消えない。
参考資料
- 刑事訴訟法第250条
- 平成22年法律第26号「刑事訴訟法の一部を改正する法律」
- NHK「未解決事件を追う」特集(2010年)
- 朝日新聞・毎日新聞(2010年4〜5月)
- 八王子スーパー事件・名古屋女子大生殺人事件報道資料


