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なぜ原爆は「広島と長崎」だったのか──知られざる選定の裏側

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1945年8月。世界で初めて核兵器が実戦で使われた。
その標的となったのは、広島と長崎。
だがなぜ、数ある日本の都市の中で、この二つが選ばれたのか。
単なる「偶然」でも「軍事的必然」でもない。その裏には、科学者と軍人、政治家の思惑が複雑に交錯する、驚くほど冷徹な選定プロセスがあった。


第一章 「実験場」としての都市選定

原爆投下の都市を選ぶ作業は、1945年春、アメリカ・マンハッタン計画の一室で始まった。
「効果を最大限に確認できる都市」──それが彼らの出した条件だった。
つまり、単に破壊するためではなく、**“実験としての完璧な舞台”**を探していたのだ。

候補に挙がったのは、京都、広島、小倉、新潟の4都市。
当時の記録によれば、都市の地形、人口密度、軍事施設の有無、過去の空襲被害状況などが細かく分析されている。

たとえば京都は、「都市の規模が大きく、心理的衝撃が極めて大きい」として最有力候補に挙がっていた。
しかし、ヘンリー・スティムソン陸軍長官が激しく反対した。
彼は日本滞在経験があり、京都の文化的価値を熟知していたからだ。
「日本の心を永遠に敵に回す」と。
その一言が、数十万人の命運を左右した。

京都が外れた後、リストの筆頭に浮かび上がったのが広島だった。


第二章 「軍都」広島の宿命

広島は、単なる地方都市ではなかった。
第2総軍司令部が置かれ、西日本全域の防衛・徴兵・動員を統括する軍都だった。
市内には兵器工場や陸軍糧秣廠(りくぐんりょうまつしょう)、通信司令部など、軍事施設が点在していた。

しかも、広島はほとんど空襲を受けていなかった。
その理由は皮肉なもので、「将来の攻撃対象として温存しておく」ためだった。
アメリカ軍は既に、空襲計画段階で「広島は温存すべき」との指示を出していたのである。
焼夷弾の跡がない都市こそ、原爆の効果を「純粋」に測定できる。

さらに、広島は川が入り組む平坦な盆地で、爆風と熱線が街全体に均等に広がる理想的な条件を備えていた。
爆心地を中心に同心円状の破壊範囲を観測するには、これ以上ない都市だった。

こうして広島は、**“最適な実験地”**として最終リストのトップに記された。


第三章 第二の標的「小倉」から「長崎」へ

原爆の投下計画では、実は長崎は「第二の候補」に過ぎなかった。
当初の第二目標は「小倉市(現在の北九州市)」だった。

8月9日早朝、B-29爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型原爆「ファットマン」を抱えてテニアン島を離陸。
第一目標・小倉に向かった。
ところが小倉上空は厚い雲と煙に覆われており、目視での爆撃ができなかった。
当時、原爆はレーダーではなく**「目視投下」**が原則だった。
都市を確認できないままの投下は禁止されていたのである。

燃料は残り少ない。
機長はやむを得ず、第二目標「長崎」へと進路を取った。
結果的に長崎は、わずか数十分の天候差で地獄の標的になったのだ。


第四章 長崎が「第二の悲劇」となった理由

長崎は、海に面した商業都市でありながら、三菱造船所や兵器工場などが集まる軍需都市でもあった。
米軍は以前からこの地域を重要な軍事拠点とみていた。

しかし地形は広島とは対照的で、谷と丘陵が入り組む複雑な地形だった。
爆風の一部は山に遮られ、破壊範囲は想定より狭まった。
それでも7万人以上が死亡した。
そして何より悲劇的なのは、**小倉と長崎、二つの都市の運命を分けたのが“雲の流れ”**だったという事実だ。
軍事合理性を超えた、まさに「偶然」による選定である。


第五章 「異なる爆弾」を試す目的

広島と長崎には、爆弾そのものの構造にも決定的な違いがあった。

都市爆弾名種類使用核物質爆発高度推定死者数
広島リトルボーイウラン型U-235約600m約14万人
長崎ファットマンプルトニウム型Pu-239約500m約7万人

つまり、二種類の原爆が実戦で「比較実験」されたのである。
ウラン型は一発しか製造されず、長崎に使用されたプルトニウム型が後の核兵器開発の主流となった。

「戦争を早く終わらせるため」という名目の裏で、科学者たちは“実戦データ”を求めていた。
それは、人間の都市で行われた世界最大の実験だった。


第六章 冷徹な戦略と政治の交差点

原爆投下にはもう一つの側面がある。
それは、**「ソ連への牽制」**という政治的メッセージだ。

1945年8月、ソ連は日本への参戦を予定していた。
アメリカは戦後の勢力圏を意識し、ソ連が参戦する前に日本を降伏させたかった。
原爆は、その「外交カード」としての役割も担っていたのである。

また、マンハッタン計画には20億ドル(当時の金額)という莫大な予算が投じられていた。
一度も使わずに終戦すれば、国民の理解を得ることは難しい。
「使用することで正当化される」という政治的圧力もあった。

こうして、軍事・科学・政治の思惑が一致した瞬間、広島と長崎の運命は決定した。


第七章 “偶然と必然”が交錯した選定の真相

まとめると、二都市が選ばれた理由は次の四点に集約される。

  1. 軍事的価値(司令部・兵器工場などの存在)
  2. 地理的条件(爆風や熱線の観測に適した地形)
  3. 空襲被害の少なさ(効果を純粋に測定できる)
  4. 政治的意図(ソ連への牽制・開発費の正当化)

このうち、いずれか一つが欠けても選定リストから外れていた可能性が高い。
広島も長崎も、「偶然」によって選ばれたのではなく、**“計算された偶然”**の中で選ばれたのである。


第八章 「冷静な判断」が生んだ非情の決断

原爆投下後、アメリカ政府は投下を「正当な軍事行為」として説明した。
だが、内部文書には、爆撃後の観測データを詳細に収集しようとする指示が並んでいる。
瓦礫の分布、放射線量、建物の倒壊角度──まるで科学実験の記録だ。

戦争の終結を早めたことは事実かもしれない。
しかし、その裏には**「科学者の論理」と「軍人の論理」が人間の命より優先された時代の狂気**があった。


終章 広島と長崎が語りかけるもの

あの夏、地上のすべてを溶かし尽くした閃光は、単なる「戦争の終結」ではなかった。
それは、人類が自らの知恵を“破壊の方向”に使った最初の証だった。

広島と長崎の違いは、爆弾の構造ではなく、**「人間がどこまで合理化できるか」**という問いの象徴でもある。
天候が数分違えば、長崎ではなく小倉が焦土になっていた。
京都が守られたのは、たった一人の政治家の情念だった。

つまり、原爆投下の最終判断を決めたのは「科学」でも「戦略」でもなく、
人間の感情と偶然の積み重ねだったのだ。


広島と長崎──その名は、冷徹な戦略の中で、偶然と人間性が交差した二つの記号である。
だがその裏にあるのは、数字では測れない「命の記録」だ。
そして、二度と同じ選択をさせないために、私たちは“なぜ”を問うことをやめてはいけない。

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